価値観の話

<前ブログnoteからの転載です>


前の記事を公開する時に、キャンペーンのハッシュタグを見つけたのでいずれ書こうかなと思っていたネタを書いてみる回

「大切なこと」って、モノではないので認識するの難しいですが、わたしは割と抽象的なものを具体的に捉えて生きてくるようにしてきた気がするので結構あります

その中でも、それを持って生きてきたことで人生得したなと思うことが「食わず嫌いをしないこと」

別に、実際の食べ物の話だけではなくて、ありとあらゆるものに対して「食わず嫌いをしない」
そしてその上で「自分の目で見て判断する」こと

「食わず嫌い」って、だいたい先入観とか誰かの評価とか、もしくは見た目とか、そういうものによって評価してると思うんですけど、それを受け入れるのではなく、自分の舌で、目で、耳で、頭で判断したいなと
自分で自分の評価を下さないで誰かの評価を受け入れるだけじゃ思考停止状態じゃないですか

もともとわたしは天の邪鬼なんで(ひねくれてるとも言う)、みんなが持ってるものって持ちたくないし、人と一緒にお店に行ったら同じもの注文するのも嫌笑
だから、世間の評価がどうであろうと、自分で試して自分の評価を決めるというのはとても合ってる

そう考えるようになったきっかけはいくつかあるんですけど、最初は多分、文字通りの「食わず嫌い」

「食わず嫌い」の話

我が家は母が偏食で、父はなんでも食べる
姉は母に似て偏食
そんな感じだったので当然、多数決でも、作る方でも強い方が優先されて食卓に並ぶものは限られてました

そんな環境だったので幼い私は「お母さんが嫌いなんだからきっと美味しくないんだろう」という先入観を植え付けられていたんですが、ある日ふと湧いた興味に父の食事に手を伸ばしてみたら、あれ?意外とおいしいじゃん?と
(あの時食べたものはなんだったかな)

それ以来、自分で試さずに食わず嫌いするのはいかんなと学びました

そんなわたしを、中学時代に後押ししたのがふたつ(3人)あって、それがポルノグラフィティ金城一紀

以前、はじめてのポストで書いたプロフィールで「人格形成に大きく影響を与えたもの」として紹介したあれです
いつか書きたかった

自分の頭で考えるようにならせられた2作品

金城作品との出会いは中2の時、担任の社会科の先生に図書館で借りたある本を紹介したらお返しに紹介されたのが『GO』でした
それ以来、ゾンビーズシリーズ(「フライ・ダディ・フライ」が有名)からドラマ「SP」までハマりまくったのですが、その1冊の中でこんなシーンがあります

わたしがそう訊いたのとほとんど同時に、車が信号に捕まって、停まった。小さな交差点で、横断歩道を渡る人の姿も、まえを横切る車の姿もなかった。アギーが急にアクセルを踏み、車は赤信号を無視してまえへと進んだ。
(中略)
「車も人もいないのに、どうして停まってなきゃならないんだよ」
(『SPEED』金城一紀、角川書店(2005))

交通ルールを無視しろ、という意味ではもちろんなくて、信号は危ないから守ってほしいんですけど
与えられるものを「ルールだから」と思考停止して無条件受け入れるんじゃなく、自分の頭で考えて、それが本当に正しいのか判断しろ、というセリフ
「みんながやってるから」とか「ルールだから」だけで正しい判断が下されてるとは限らない
大半はそれを無条件受け入れるから、コントロールする側に立ちたい人がいいように操れてしまうという脈絡のシーンです

もちろん、従って然るべきルールはたくさんあるけれど、「なぜこんなルールが存在するの?」みたいな、古の因習だったり形骸化した取り決めだったりは疑ってもいいのか!と新しい感覚を得ました

もうひとつ
ポルノグラフィティの数多くの神曲の中でも「ギフト」という神曲があるんですけど、その歌詞

信じてみることが甘いかどうかなんてさ
自分の舌で舐めてみなけりゃ
がっつり噛みつかなきゃ分かんない

「ギフト」は割と、応援ソング?よりな歌なのでそんな歌詞ですが、いい曲なのでオススメです
それでこの歌詞で「自分で味わってみること」とともに「自分の可能性に飛び込んでみる」ことも気付きました
「やってみなきゃわかんないじゃん」という

まとめられるかわからないまとめ

いまの時代、ものすごくいろいろな情報に溢れていて簡単にアクセスできるじゃないですか
ニュースみたいなものもそうだし、それに対する個人の感想、ひいては乾電池のレビューに至るまで
noteも、♡とかpv数みたいなので評価されてる

それは便利なようで、自分でも知らないうちに「多くの人がこう言ってるから」とか「星が4/5だから」みたいに左右されてるとおもうんです

それは正しい情報の場合もあるけど、誰かの「編集」が入った情報がほとんどだから、偏りがまったくない完全ニュートラルなことってほとんどない
だったら何かしらの方法でその情報がどれくらい正しいのか、どんな偏りの性質を持ってるのか確かめなくちゃいけない

わたしはネットで買い物するとき、商品レビューってほとんど見ないんですけど、それは人のつけた点数に振り回されたくないし、それはただ個人的な感想の集合体なだけであって、それよりも自分で使って判断したいから(だから失敗する買い物も多いけど)

そして歴史は得てして、最初から高評価を得られた良いものって少なかったりする

ゴーギャンやカフカやシューベルトだって死んでから評価されるようになったし、iPhoneも発売当初はパッとしなかったし、イエス様ですら生前は迫害され冤罪で亡くなるまでしている

もちろん、「大半の評価」が合ってることもたくさんあるけど、その中で「自分に合う・合わない」はまた別物だったりするわけだから、客観的な評価主観的な評価は別で持っていたいなとおもいます

「みんながいいって言うから」より、自分で使ってみて、体験して、確かめた方が説得力あるし、自分の満足度とか納得度が全然違うじゃないですか

だれかの答えをそのまま考えずに受け入れるって、その人任せな人生(とまではいかなくても)になっちゃう
ランチをどっちの店にしようか、くらいだったら誰かに委ねてもいいけど、洗濯機とかpcだったらやだし、もっと大きな選択だったら責任を取ってくれない誰かに任せず自分で選んでいきたいなーと
何年か経って、「あのときあの人がこう言ったからこっちにしたのに」なんてことをもう思い続けたくはないんですよ

でもそのためには、自分で試してみなくちゃいけなかったり、そもそも「試す」なんて出来なくて1度選んだら戻れないこともあるから情報を選択したり、見極めたりっていうことを自分でやらなくちゃいけない
だからこそ、面白くもあるけどもっと学んでいかなくてはならないなーとおもってます

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