矢野は包丁持ってはしゃいでました
かぼちゃは割と好きなのでハロウィン飾りもついつい飾っちゃうんですが、実はハロウィンってキリスト教も大いに関係してるんですよって知ってました?
11/1が「諸聖人の日」という祝日なんですが、10/31のハロウィンはその前夜祭みたいなことなんです
「ハロウィン」という言葉も「前夜祭」みたいな意味だったと思うんですが、まあその辺の詳しいことは長くなるのでぜひぐぐってください
そして日曜日はクリスチャンにとっては礼拝の日なんですが、わたしの通うヘブンズフォーチュンチャーチは絶賛オンラインでの礼拝を開催中
(ちなみに矢野とは教会で出会ったので、日曜は2人で自宅にて礼拝)
なんですが、今週はちょっと用事がありまして久しぶりに教会に足を運びましたよ
半年ぶりくらい
久しぶりなもんだから家から教会までの所要時間の計算ができなくなってました
そして今週は「信仰」がテーマの説教だったんですが、辞書、もとい聖書をひくと「信仰」とはこう書かれています
“さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。”
ヘブル人への手紙 11:1 口語訳
(この機能使いたかった)
わたしは常々思っているんですが、「信仰」とか「信じる」とかって言うとき、それは不確実なもので、そこには大なり小なり「疑い」が含まれているんじゃないかと
なのでわたしは意図的に「信じる」という単語は言わないことが稀にですけどあります(不信仰なわけじゃない)
「疑い」の余地があることの反面が「信じる」なんじゃないかな?と
だって、現代社会においては、地球は丸くて太陽のまわりをまわっていることを「信じる」と言う人は(たぶん)いない
けどかつてはそれは説のひとつで、信じるか信じないか、だった
し、たとえば「自分は母親から生まれた」ことは「信じる」ことではない
誰も見たことがないことでも、事実であればそれは「信じる」対象じゃなくなるんですよ
じゃあ、「信じる」が100%になって「疑い」が完全に0%の絶対的なものになったらどうなるか
それは「知っている」になるんじゃないかと思うんです
そしてちなみに私は、神様がいることを「知っている」し、たくさん助けてくださって私の人生にたくさんの奇跡を起こしてくださっていることを「知っている」んです
それは不思議と、誰に教えられたわけでもなく
そこでさっきの引用ですが、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」ってすごくしっくりきて、さすがの表現だなあ〜と今日改めて感動しました
さすがパウロせんせいです
自分が知り得ないことを確認しちゃうって、100%を超えた信仰に他なりませんよ
そして「信じる」が100%になって疑いの余地がなくなると、それは「事実」になる
未来のことも未知のことも、現実になるんじゃないかと思います
なんて、ちょっと取り留めなく書いてしまったので着地点が行方不明なんですが、わたしは神様のことをもっと「知っている」人になりたいとおもいました
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